Kanto Gakuin University Ori Akemi Seminar

Column織朱實が日々感じたことをつづっていきます。

フィッツジェラルド・ノート(2)続き (04.11.20)

ちなみに、こういうときは辞書はひかないのがコツ。
分からない単語があろうと、固有名詞が何なのか??
でも、とにかく読み切る。そんな勢いでヘミングウェイを読むと、
その後なんだかヘミングウェイっぽしゃべり方になっている(笑)。
カクカクとした、断定調というのか(村上春樹を読むと、
その後「僕」っぽいしゃべり方になるのと同じか)。

「フィッツジェラルドの文章は、感傷的だよね。でも、
本当にうまい文章だと思う。華やかなんだ。ギャッツビーの、
あの米国の華やかな時代をすっごく上手く切り取っている。でも、
虚構に満ちた華やかさを書いているにも関わらず彼の本質は....」
「...モラリストなんだよね」
「そう、そうなんだ。結局すっごくまじめな人なんだろうね。それが
作品ににじみ出ている。英文学専攻している人間でも、
フィッツジェラルドのギャッツビーを読むと、アメリカ文学がやりたくなる」

そう、彼の作品の底を流れているのは、きっと、そうした真面目な人柄
なんだろうな。フィッツジェラルド好きの村上春樹が「フィッツジェラルド・ブック」で、それを作品の持つ「徳」と表現していたけれど。
どんな狂乱やバカ騒ぎを書いていても、決して下品にならないものがある。
もしかしたら、これが作品をつまらなくしているのかもしれないが、
作者のもつ資質が作品にバランス良く生かされているというのは、魅力的な
作品の重要な要素だと思う。

「Last Party」で植田景子氏はヘミングウェイ(月船さらら。好演)に
「一流の芸術家の仕事は、決して個人の感情を作品に塗り込めることではない」と語らせているが、確かにこれは一理ある。しかし、結局作品が人を惹きつけるのは、その作品に作者の個人的バックボーンが透けてくるからなんだろうな。だからこそ、「Last Party」で学生が失意のフィッツジェラルドに
「でも、彼の作品は一個人の人生に寄り添ってくれるなにかがある」と
言われることが説得力を持ってくる。

同じことは、演技にも言えそう。私が和央ようかの演技が好きなのは、
どんな役を演じてもどこかに彼女の誠実な人柄が透けて
見えるからだと思う。荒くれ男を演じようが、醜い怪人を演じようが
どこかで突き放せない誠実性がでてくるところに惹かれているんだろうな
(もっとも、誠実な人物を演じさせるとつまらない人になって
しまうという側面もあるが)。

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