Kanto Gakuin University Ori Akemi Seminar

Column織朱實が日々感じたことをつづっていきます。

フィッツジェラルド・ノート(2) (04.11.21)

観劇後に、とにかくフィッツジェラルドの本を読みたくなった。
特に、「夜はやさし(Tneder is the Night)」。
ところが、これが普通の図書館には
ないんですね(今や純文学を専攻する人くらいしか読まないかな?)

しかし、私の隣人は若き英文学研究者である。専門は、中世宗教文学だが、
英米文学一般に造詣が深い。ウィリアム・ブレイクについても
教えてもらったし、「妖精辞典」など(すっごく面白いけど個人が趣味で
購入するには高すぎる!)めくりながら「指輪物語」の話をしたこともある
(この時は、「ロード・オブ・ザリング」に嵌っていたから)。
私の突然の「~について、教えて!資料かして」という
要望につきあってくれる奇特な隣人なのである。

というわけで、今回もいきなり押しかけて
「フィッツジェラルドの本貸して~!」
「おお!今度は、フィッツジェラルド?また、なんで?」
「え~と、彼の一生を題材とした舞台を見て、それがすっごく良くてね」
舞台のあらすじをかいつまんで教えてあげると、興味津々。友人にゼルダ
研究者もいるというので、DVDが出たら貸してあげる約束をする。
で、何冊かあるうちのとりあえず短編集を借りることに。

「『華麗なるギャッツビー』はね。まさに、アメリカのあの時代にしか
生まれ得なかった作品ですよね。高度成長期の米国で、スーパーハイウェイが通り、移動が容易だったから、ああもいろんなところに出没して、
それが小説にスピード感を与えているんですよね」
「私、昔読んだときには文章が甘ったるくて好きでなかったんだ。
今、読み返したら違うような気がするけど。
ヘミングウェイの文章はぐいぐいひっぱられて読めたんだけどね」
「そう、ヘミングウェイの文章は、モダンだったんだよね。
彼の文章は、当時の英語にもすっごく影響を与えていて、文章が口語に
影響を与えた珍しい例なんですよ」

お~、そうなんだ。でも、なんだか分かる。私が、ヘミングウェイの作品を英語で読んだのは、プリンストン大学(偶然。フィッツジェラルドも
学生自体を過ごした大学)にいた時だった。
持ってきた日本語の本を全て読み尽くして、読む物がなくなって
仕方なく手を出した(そうでなければ、英語で小説など読まない。爆)。
それくらい小説に飢えていたから、英語なのに夢中で読めた。

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