Kanto Gakuin University Ori Akemi Seminar

Column織朱實が日々感じたことをつづっていきます。

1年に1回の飲み会 (05.01.10)

1年に1回か、1年半に1回の割合でなんとなく一緒に飲む人がいる。
勤めていた会社の上司で、気があって家族ぐるみの付き合いをしている。
最近は、お互い忙しくて近況交換だけ。でも、1年に1回か1年半に1回の割合で
二人で飲みに行く。もう、ずっと続いている。

二人きりの飲み会は、気が付くといつも去っていってしまった人達の話を
している。彼は、随分前に逝ってしまった息子さんの話を、
私は父の話を。「あの頃は、辛かったね」「仕事が忙しくて。
仕方なかったね」と。身内で話すには生々しくて、でも1年に1回くらいは、ただ淡々と語り合いたくなる。
私達が、話さなければ寂しがっているような気がして。もう話をしても、
号泣することもない、少しだけほんの少しだけ切ない気持ちがするだけ。
痛むのは、失ったことより、自分の不甲斐なさだ。
人工呼吸器を外した決断は悔やむものではないけど、それでも
その決断はまだ小さな棘を残している。あの頃は、娘はまだ1歳で、
仕事も忙しく、母は感情的になり、金銭処理含め人が一生で精算しない
といけない雑務の驚くべき多さ。誰かがしっかり立っていなくては
いけなかった。無我夢中だった。彼の方は、働き盛りで任された
仕事が大きく、病院で向かい合っていたのは奥さんだけだった。
それは、口実だったのかもしれないけど。

いなくなった人達の思い出は、月日がたつと甘い思いばかりで、
幾ばくかの棘は自分の寄る辺なさばかりだ。
だから1年に1回くらいは、淡々と愚痴をこぼす、そういうかたちで
しか偲べない。二人とも、背負っているものが大きかったから、
人前では泣けずにいたから。感傷に浸るより、目の前の仕事をこなし、
家族を愛し、しなければならないことが山積みできてしまったから。
でも、それでも去っていってしまった人への想いが出口を求める。
だから1年に1回くらいは二人で飲みたくなる。気が付くと、
毎年同じ話を同じようにしているのに。意見を述べるわけでなく、
感傷的になるわけでなく、ただ相づちをうって飲んでいるだけなのに。

改札で「久しぶりに話せて良かったよ」と手を振る人の背中は、
昨年より一回り小さくなっていて「年を取ったな」と思う。
愛しい人達の年月は止まっている。私達の背中だけを確実に、
それらは追い越していく。
もう成長もしていないのに、今でもとらわれてばかりの私達なのに。

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