Kanto Gakuin University Ori Akemi Seminar

Column織朱實が日々感じたことをつづっていきます。

猫を飼うと言うこと(2) (05.03.27)

猫はなし続き

私自身は、幼少の頃から犬としか生活をしたことがないけれども
母は、私が生まれる少し前までシャム猫と一緒に暮らしていた。
結婚して、すぐ父と渡米した母に、海外から一人で来て友人もいなくて
寂しいだろうと、父の上司が譲ってくれたのがこのシャム猫だった。
この猫の元の飼い主は、多分日本びいきだったのだろう。
猫の名前は、「スコシ」。一時大ブームになった佐々木倫子の
漫画「動物のお医者さん」にもやはり英国夫妻の飼っていた犬の
名前が「スコシ」と出ていたので、外国人が「小さい」とか「可愛い」という
意味で、聞きかじりの日本語「少し」を変形させて
命名することは結構あるのかもしれない。

スコシは、気儘で我が儘で、いわゆる猫らしいオス猫だったらしい。
短気な父が、なにかの折りに怒って彼にスリッパを投げつけて以来
全く父のところには寄りつかなくなった。近づいてくるのは、スコシが大好物の
「するめ」が日本から送られてきて、父が晩酌のおつまみにと、封を開けたときだけ。
「もう、それはすごいのよ。小さな音なのに、聞き分けるのね」
スコシの話をする母は、いつもとても嬉しそうだ。
母にしかなつかず、母のことだけを気にしていたスコシ。母が父に怒られて
泣いていると、トントンと肩をたたき、なぐさめてくれたという。
このときの、スコシの肩たたき踊りを、母は本当に上手に子供だった私に
見せてくれた。
「ほらね~、こうやって、トントンとママの肩をたたきながら、なぐさめて
踊ってくれたのよ」
母があまり上手に猫の踊りを再現してみせるものだから、小さいときは、
猫は人の肩をたたいて踊る動物だとずっと思っていた。
マザーグースの「月を飛び越える雌牛の傍でバイオリンを弾く猫」のイラストの
イメージも重なって、猫はバイオリンを弾いたり、踊ったり、そんな動物だと
ずっと思っていたのである(ちなみに、「お休みなさいフランシス」のイメージがあって、
アライグマは夜チーズケーキを食べる動物だとばかり思っていた。笑)

海外で父以外に頼る人がいなく、言葉も通じない、
スコシだけが母の友人であり、慰めだった。

そんなスコシは、さよならもいわずに母の前からいなくなった。
私が生まれる数週間前に。
「ママのことが大好きだったから、赤ちゃんが生まれることが分かって、
いなくなったのかもしれないわ」

随分、探し回ったけどまるで神隠しにあったかのように姿が消えたそうだ。
本当は事故でなくなっていたのを、父が母に教えなかったのかもしれない。
赤ちゃんに猫が嫉妬のあまり悪さをするのを恐れた父が誰かに
あげてしまったのかもしれない。
真実を教えてくれることができる父ももういないので、今では誰にも分からないけど。
寂しかった母が、赤ちゃんという慰めを得るのと交代するように
スコシは母の前からいなくなったのである。

こんな風に、昔は猫や動物は死期が近づくとふらっといなくなっていた。
近所の猫も、親戚の家の猫も、友人の猫も年を取ると
気が付くといなくなっていた。みんな「後から考えると、
あれが最後の挨拶だったんだね」と思うようなあとを残して。
原っぱ、空き地、軒の下、さっきまでいた猫が消えてなくなる不思議な
空間が街にはたくさんあったから、吸い込まれるように消えても不思議でなかった。

街に原っぱや空き地がなくなるにつれて、消えていく猫はいなくなっていった。
いつの間にかいなくなるのはつらいけど、目の前で冷たくなった
亡骸をみるよりはいい。ふと姿を消したあの空き地や川べりやススキの原
の間で、またにゃーと首をかしげながら毛繕いをしている姿が見つかると思えるから。

今でもビルの隙間に思いがけない空き地をみつけると、どこかに
自分の大切な人に最期の挨拶をしてきた猫や犬が迷い込んでいないかと
目を細めてしまう。そんな子達がいる原っぱが、どの街にもあるような気がして。
知らない街にいくと、夕方や明け方の路地をついつい彷徨ってしまう。
大好きだった白いしっぽをぴんと立てたあの子が、路地の角を小走りに曲がっていく姿が、
朝焼けの淡い金色の光の中なら、黄昏の紺青の霧の中なら
見つかるかもしれない、とどこかで信じている。いい年をして、と苦笑しながらも
原っぱを探していた癖が今でも抜けない。

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